うがつ

今、本を読んでいて、「穿つ」という言葉の意味が理解できなくて、検索をしてみた。普段「うがつ」という言葉を「うがった見方」などと使うことがあるが、この使い方は本来まちがい、だそうで、

うがつ とは 穴をあける という意味が転じて 深堀をして本質に迫る という意味なのだそうです。

ということで「うがった見方」とは、「物事の本質を捉えた見方」という意味であり、否定ではないということをしりました。(が、広域に理解されている方が優先されていくのが日本語なので、今後も否定的な意味合いで使われ続けることで、結果 否定的な意味が正当となるのでしょう・・。

 さて、「仏道を穿った見方で見る」とは どっちの意味になるのだろう・・。

菩薩

bodhisattva の音写 菩提薩多とも書く

さとりの完成に努力する人 さとりの完成に努力する人 仏の智慧を得るために修行している人 自ら仏道を求め、他人を救済さとらせる者。  在家者出家者を問わず、発心して仏道を行ずる者


長谷聖十一面観世音菩薩様は菩薩様であり 仏となれるのに、私たちに寄り添い共にあゆみ、指し示す。

善友

ぜんう 善い友。良き友達の意味。善知識とも、勝友、善親友ともいう。普通修行上の助力をしてくれた人を言う。正しい道理を教えてくれる人。

 


よくはない友がいるのなら、そっと離れ一人歩むべきである。すべては因縁でつながるが、自分の行動は自分で決めることができ自分から離れることもできる、他人の悪い行動はたとえ自分の悪の原因とならなくとも、関節的な原因(縁)となってしまうから。そっとはなれることを勧める。

 

 善き友がいないのならば、寺に行ってみる。自分の悩みを聞き善き指針をしめしてくださる。そんな少し先に悩みを克服した人達が集まる所だから。

善とは何か?

おしゃかさまが80歳で入滅する時、話された。

「私は29歳で善を求めて出家し、ここに50年余となった」と語っている。35歳で仏となった釈尊であるから、その時以来、善を求めて求道生活を必要とするはずはなかったであろう。それにもかかわらず、仏となる以前も仏となった以後も、生涯かけて「善とは何か」を探求しつづけたのである。

 聖徳太子の解釈によると、修行の結果得られた善(善根)は、あらかじめ果報を期待して得られたものであるから、なんらの果報も求めず、ひたすら身に修めていこうとする善(習善)にくらべて、はるかにも劣るものであると 説明をした。

 


 

 駄菓子菓子 修行を行じないよりは、はるかに善きことである。(と住職は思う)

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